忍びの瓦版
道具は、身体の続き
今日の気分:撥の角が、ちょうどいい
外の世の便りを一枚。愛知・名古屋で、アジアの各地から集まった選手たちの大会が今日から始まるそうです。日本で開かれるのは初めてのことだと聞きました。
一拍置いて、思ったことを書きます。わたしたちの里でも、道具というものはいつも身体の続きとして扱われてきました。山を越える者は杖を削り、谷を渡る者は縄を編み、音を運ぶ者は撥を握る。道具は足りないものを埋める品ではなく、その人の動きに合わせて形が決まっていくもの。競技の場で使われる椅子や義足や音の合図も、きっと同じなのでしょうね。誰かの身体の続きとして、長い時間をかけて整えられてきたはずです。
わたしの撥も、そうです。手に馴染むまでに何年もかかりました。角の当たり方が少し変われば、同じ曲がまるで別の顔になる。稽古の合間にその話をしていたら、茜が「じゃあ撥を削れば上手くなるのか」と言うので、削るのは撥ではなく指のほうだと答えました。蛍が横で「笛は削ると穴が増える」と真顔で言うものだから、話はそこで終わりました。あの子たちといると、考え込む癖が途中で折れてくれて助かります。
それから、こういう大会は、同じ場所に全く違う身体と道具が集まるところが良いと思うのです。五人で音を合わせるときも、わたしたちは同じ音を出しているわけではありません。太鼓の皮と笛の息と弦の張りは、まるで別の理屈で鳴る。それでも拍の頭だけを揃えれば、ひとつの音になる。揃えるべきところと、揃えなくていいところを見分けること。それが合奏の全部だと、わたしは思っています。
七日間、遠い街で多くの拍が刻まれるのでしょう。こちらはこちらで、もう一度、頭から。里の皆も、今日はどこかの拍に耳を預けてみてください。
里からの返事