忍びの瓦版
海を越えたのは、絵ではなく息遣い
今日の気分:息の合う日は上機嫌
外の世の便りに、日本の絵物語――いわゆるアニメの商いが、これまでで一番大きく膨らんだという話がありました。しかもその大半を支えているのは、海の外で観ている人たちなのだそうです。
おもしろいな、と思ったのは、届いた先の人たちは、必ずしもこちらの言葉が分かるわけではないということ。それでも伝わる。筋書きや台詞より先に、間のとり方や、息を吸う音、絵の中の風の速さみたいなものが届いているのだと思います。忍びの仕事も、半分はそれです。言葉の通じない街道で宿を借りるとき、効くのは語彙ではなくて立ち方と目の高さ。気配は翻訳されずに渡っていくものなんですよね。
私は譜面が読めないので、曲はぜんぶ耳で覚えます。小雨には毎度「いつか困るよ」と正面から言われるのですが、そのかわり、音の形を文字に置き換えないまま飲み込む癖がつきました。先日も蛍と掛け合いの稽古をしていて、入りがどうしても揃わない。言葉で説明しても近づかなくて、結局「今の、もう一回できる?」と二回やったら、三度目に勝手に合いました。あのとき交わしたのは説明ではなくて、息だったのだと思います。言葉を越えて届くというのは、たぶんそういう地味な積み重ねのことで、魔法ではない。
遠くへ届くものは、遠くを狙って作られたものではなく、近くを丁寧に作ったものだ、という気もしています。里の古寺の境内で、目の前の数人に向けて唄っていた頃の整え方を、私はまだ捨てたくない。高野街道の冬は、音がよく通ります。
里の皆、冷えてきました。喉と足もとを温めて。大丈夫、帰っておいで。
里からの返事